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2010.01
森林雑学ゼミ
 

マツ林盛衰記

 

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かつてはどこへ行っても、こんなマツ林が。




昭和初期の京都嵐山。
マツが旺盛、景色の主役。




平成の京都嵐山、昭和初期と同じアングルで。
マツはほとんど消えた。土手の上に、防虫薬剤処理などでようやく残るばかり。

 

 

 

 

 

 福井県の、6500年前の鳥浜遺跡では、当時の人々が使っていた木材製品が沢山出土しました。
 木材の種類は多く、それらが木の性質を活かして用途に応じて使い分けられ、まさに「適材適所」だったのですが、その中にマツは出てきません。それに、土層の中に残る花粉を調べても、その時代にマツは無いという話です。
 また、『魏志倭人伝』は、3世紀のわが国(邪馬台国)を記載したものとして有名ですが、邪馬台国の植物の記事が少々あります。タブ、カシ、クスなど目立つ樹木が10数種記載されているのですが、そこにマツと思しき名はありません。
 古い時代、マツは目立った存在ではなかったようです。

 うんと昔の陶器生産団地・大阪の泉北丘陵で、昭和50年頃、ニュータウン開発に先立って沢山の古い窯(かま)跡が、調査されました。
 これらの窯で使用していた薪(たきぎ)は、6世紀末から7世紀初めを境にして、シイ・カシ類などの広葉樹からアカマツに代わることがわかりました。これは、火力等の点での優位性がわかっての「燃料革命」とみるよりも、近在の山に多い樹木が、シイ・カシ類からマツに代わり、使ってみたら、その優位性に気づいたとみるべきでしょう。

 6世紀末から7世紀といえば、飛鳥時代。日本文化急展開の時期です。
 文化進展には、木材資源や燃料(薪)が必要、農業肥料用にも生葉落葉等々、山々から物を奪いますから、山、とくに里に近い山々の地力は衰えて、近畿では本来のシイ・カシ類などの照葉樹の森林が保てなくなり、やせ地でも生育できるマツ林に代わっていったのです。
 
 以降、国内各地で、文化圏が生まれ拡大すなわち人間活動が盛んになると、その周辺の本来の森林が衰えてマツ林化することが続きました。
 江戸時代には、それは一段と加速。そしてマツ林時代は、昭和30年代に石油系燃料や化学肥料が普及するまで続きました。
 その間、マツは日本人の生活にとけ込み、日本人と切っても切れない深い関係になっていったのでしょう。

 しかし、昭和30年代以降、人々の収奪が無くなったマツ山の土壌は肥え、その土地本来の樹木が復活してくると、マツ林は衰退せざるをえません。今まで、本来の樹木が勢力を持てないところだからこそ、マツは威張っていられたからです。
 そしてそれに追い討ちをかけ、致命的な状態にまで追いやったのが、マツ枯れ病、材線虫でした。マツ枯れ病は、カミキリとそれが運ぶ線虫が起こすマツの大敵で、昭和後半から拡大しました。これが、いわゆる「松くい虫」の被害です。
 そして今、マツ林はすっかり影が薄くなりました。


※マツ林盛衰の経緯詳細は「森林環境科学」参照


(c)只木良也 2010

 

 

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