ご神木。森林・樹木は神仏のよりどころ。
京都・城南宮
日本文化のふるさと、照葉樹天然林。宮崎・綾
森や樹木あっての社寺。徳島・焼山寺
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元旦、神社に初詣。二礼、二拍手、一礼。その数時間前には、百八つの除夜の鐘に耳を澄ませ、さらにその数日前には、ジングルベルが街にあふれ・・・。
日本の年末年始、もう何年も何十年も繰り返されている光景です。
日本の多宗教性はよく言われるところです。
人の一生も生まれ落ちてまもなくの宮参りは神社、長じての結婚式はキリスト教の教会、人生全うして死に至ればお葬式は仏教寺院、というのがよくあるところ。
多宗教容認、日本人の度量の深さといってもいいのではないでしようか。
世界には、宗教の違いが戦乱を巻き起こす、それを拡大する例は珍しくないのに。
そもそも古代の日本人は、自然を構成するもの、森羅万象山川草木すべてに神宿り、それぞれを司る神様の数は八百万(やおよろず)と信じてきました。
これは千変万化する豊かで多彩な自然があればこその発想です。
日本を含む東アジアは、降水量が多く、森林という究極の豊かな生物的自然が成り立つところでした。多様な自然とその現象、それに対応するにはそれぞれ担当の神様が・・・という考えです。
古来神様が多かったわが国にその後もたらされた仏教は「山川草木悉皆成仏」、つまりなんでも仏になれるという思想であり、その考え方は古来の神道と溶け合いしました。
なるほど政治的に競合材料にされ、廃仏毀釈といった神道尊重の運動も何度かありましたが、基本的には「共生」でした。
例えば、天照大神は大日如来の仮の姿といった解釈すらあり、神仏習合は当然、仏教寺院を守るために境内に神社を置くなど普通のことだったのでした。
あの祇園祭で有名な京都の八坂神社も、もとは祇園寺に併設された神社(宮寺)だったのが、寺院は廃されお宮だけが残ったものだと言います。
以前、わが国の思考回路は「森林型思考」であると紹介しました。
(→2010.6、2011.4森林雑学ゼミ)
わが国の多宗教容認の背景には、お互いの長所を尊重しながら共存し助け合いの心に優れるという、この森林型思考があると感じます。
お寺や神社のある風景を、ちょっと思い浮かべてみてください。村々集落それぞれの檀家寺や神社、その多くが森に囲まれてはいないでしょうか。
森林型思考に育てられた文化、それは豊かな自然力に対抗するのでなく、その偉大な自然力を容認し、それに順応して上手く使うことがベースだと思います。
自分たちの力ではどうすることも出来ない自然の振る舞いを容認し、例えば、お正月に降る雨や雪も「御降(おさがり)」と呼び、「授かりもの」としてプラス方向に解釈する、そこに森林型思考の真髄があるかと思うのです。
(c)只木良也 2013
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