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2015.08
森林雑学ゼミ
 

マツ林のピンチ、文化継承に陰

 

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マツは里山の主役・・・だったけれど、

こんな風景は今や珍しくて。 

 

 

 

 

祇園祭・北観音山、中心にすっとのびるマツ。

枝ぶり良好、樹高はなんと20m。


 

 

 

 

 今年から来年にかけて行われる奈良・春日大社の御造替(→2015.7ちょっと教えて)。この大きな伝統行事において、私にとって初耳かつ最大興味となったのは、本殿改装工事中の仮の神殿「移殿(うつしどの)」の建設材がマツであるという話でした。
 マツ材利用は御造替の初回(770年)以来の伝統とか。もちろん、本殿は権威・格式ある建築材・ヒノキにて。それに対しランクが劣るイメージのマツ材を使ってきた理由は定かでないようですが、移殿では、仕様、調度等、何ごとについても「仮殿だから本殿とは少しずつ違える」という考えが基本にあるそうです。故に、ヒノキ以外の材→マツ、ということだったのかもしれません。

  我々にはなじみの深いマツですが、かつて、日本では影の薄い存在でした。人との関わりが始まったのは6〜7世紀頃と考えられ、その後、日本文化の進展と併行して用途は拡大、マツ林の分布は拡大してきました(→2010.1森林雑学ゼミ)。
 奈良周辺においては、御造替初回の頃はちょうど、そのマツ林拡張の時代にあたります(→2015.7ちょっと教えて)。
 こうした経緯をふまえ、移殿へのマツ材の利用についてこんな解釈をしてみました。

 人間の活動の少なかった時代、奈良においてもマツはポピュラーではなく、周辺を覆うのは、土地本来の極相樹種であるシイやカシ類の照葉樹林でした。それがマツ林に変わっていった背景には、飛鳥から藤原、奈良と転々とした遷都の歴史があります。
 大和平野とそれを取り囲む山々の森林は、その大きな動きにともなって人間の手で荒らされ、やがて土地本来の極相森林である照葉樹林が保ちきれなくなりました。
 そこへ広がってきたのが、荒地ややせ地でも生育可能なマツです。

 もともとマツが奈良に全くなかったわけではありません。土地条件 (土壌の発達)が悪くて極相樹種が繁茂できない立地、たとえば丘の上、山頂、尾根筋、岩石地、砂地といったところに限ってのみ生育していました。
 そうした姿がかえって、当時の人々に格調高く映ったのかもしれません。普通の林地にありふれたものでない、常緑である、老大木ともなれば枝ぶりがすばらしい・・・と。「神様の拠り所」あるいは「神そのもの」として信仰・尊敬が集まり、古事記や万葉集にはまつわる逸話や歌がいくつも収められています。
 そんな希少で神がかりだった木が、御造替が始まる頃には、身の回りどこにでもある木となっていたのです。しかし、「神宿る木」という古来の感覚は人々の中に息づいていたはず。

 となれば、マツを移殿に使うことに迷いなどなく、そしてその木がふんだんに使えることを、ありがたく嬉しく感じていたのではないでしょうか・・・。

 それから1000年余、昭和前半まで、マツは里山の主要構成物であり木材は潤沢でした。しかし、化学肥料や石油燃料の普及によって里山が利用されなくなると、遷移進行してマツ激減。さらにマツ枯れ病が追い打ちをかけ、日本のマツは衰退の一途です(→2010.12010.2森林雑学ゼミ)。
 そして今や、御造替仮殿の用材調達に苦労するという事態にまで至ってしまいました。春日大社だけではありません。類似のことはいろいろと。京都の夏を彩る祇園祭の山に立てる真木(松)しかり(→2012.7ちょっと教えて)、大文字の燃料しかり(→2010.8.17ひとりごと)。
 これら文化的遺産には、伝統を継承しマツ材を使い続けたい、使い続けてもらいたいもの。はたして、今後どう展開していくのでしょうか。


(c)只木良也 2015

 

 

   



 

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